鶯の声を聞きながら(続き)
一昨日「鶯の声を聞きながら」を書きました。ところが翌朝待てど暮らせどやってこないのです。「どうしたんだろう?猫に食べられたのでは?それとももう山に戻ったのだろうか?」毎年そうなのです。それまで毎日鳴いていたのに、ある時からまったく鳴き声が聞かれなくなるのです。ところが一日おいて今朝聞こえたのです。実にいい鳴き声でした。「ホーホケキョ」
鶯の声を聞きながら
朝7時頃書斎で仕事をしていると庭に鶯が来て鳴くのです。「ホーホケキョ、ケキョケキョ」。本当はこんな月並みな言葉では表現できないほど澄んだ美しい鳴き声、心が澄み切ってくるような感じです。
昔から人に愛され、春鳥、春告げ鳥、花見鳥、歌詠み鳥、経読み鳥、匂い鳥・・・などとさまざまな名前で親しまれてきたそうです。明日の朝もまた美しい声を聞かせてくれるでしょう。楽しみです。
受難週を迎えて
教会には教会の暦があります。それによると、今年は3月16日(日)から受難週です。十字架にかかったキリストに思いを馳せ、同時に自分のこれまでとこれからを静かに考える時です。国連の事務総長だったダグ・ハマーショルドの言葉が好きです。「理解するー心の静けさをつうじて。行動するー心の静けさより出発して。かちとるー心の静けさのうちに」。今週は特に心の静けさを大切にしたいですね。そして3月23日(日)のイースターを迎えたいと思います。
卒業おめでとう!
幼稚園や保育園を卒園した人、おめでとう! 小学校、中学校、高校、大学を卒業した人、おめでとう! 心からお祝いします。前途に神の大きな祝福をお祈りします。
お祝いに日野原重明先生(聖路加国際病院、96歳)が書かれた本『十歳のきみへ 95歳のわたしから』の中にあったすてきな言葉をお贈りします。「寿命とは、生きることに費やすことのできる時間のことです。二通りの考え方があります。生まれた瞬間から寿命という持ち時間をどんどん削っていくような考え方、なんだか生きていくことがさびしい感じがします。私がイメージする寿命とは、手持ちの時間をどんどん削っていくのとはまるで反対に、寿命というおおきなからっぽの器の中に、精一杯生きた一瞬一瞬をつめこんでいくイメージです。ぼんやりして時間を過ごそうが、何かに没頭して過ごそうが、時間をどう使うかは、一人ひとりに委ねられているのです。時間の中身を最終的に決めるのは、君自身なのです。」
いい言葉でしょう。元気付けられるでしょう。新しい学びの場で精一杯生きた一瞬一瞬をたくさんつめこんでくださいね。
「2000回目の礼拝なのです」
ある人が、「よく過ごされた日曜日は満ち足りた一週間を運んでくる」と言いました。確かにそうだと思います。
『大草原の小さな家』の作者ローラ・インガルスは、日曜日に家族と一緒に教会に通った懐かしい思い出を記し、教会への道に美しいひなげしがいっぱい咲いていたことを印象的に記しています。私にもそれに似た思い出があります。父が牧師になる前のこと、私たちは鹿児島の出水地方に住んでいました。日曜日には教会に行きました。讃美歌を歌ったり聖書のお話を聞いたりし、その後大人の礼拝が終わるまで遊んでいました。ある日曜日、教会からの帰り道、私は父の自転車の後ろに乗って鶴を見に行きました。群れがいっせいに飛び立つ様子は感動でした。今でも素晴らしい思い出として心に残っています。
神学者ヴァルター・リュティは『あなたの日曜日』の中で、一人の老人が「先生、今日で礼拝に出席するのが2000回目なのです!」と告げたことを記しています。彼は40年間礼拝に通い続け、そこで静かに慰めや励まし、喜びや希望や力を受けてきたのです。礼拝とはそのような場であり時なのです。
明日は日曜日、あなたもお近くの教会に行ってごらんになりませんか?